ここでは、1584年に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1584年(天正十二年)1月、成政、前田玄以(まえだ げんい)と秀吉(ひでよし)の茶会に招かれました。4月、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい=小牧城(こまき じょう=現在の愛知県小牧市堀の内(ほりのうち)にあった城)、犬山城(いぬやま じょう=現在の愛知県犬山市にあった城)、楽田城(がくでん じょう=現在の愛知県犬山市楽田にあった城)を中心に行われた戦い)で、羽柴秀吉(はしば ひでよし)軍と、織田信雄(おだ のぶお)・徳川家康(とくがわ いえやす)連合軍との間で戦いがありました。8月、成政、前田利家(まえだ としいえ)方の朝日山城(あさひやまじょう=現在の石川県金沢市朝日町にあった城)を攻(せ)めました。城将(じょうしょう=城を守る大将)千五百余(よ=おおよそ)兵(へい=兵士)で城を死守(ししゅ=命がけで守ること)しました。9月、成政、小野宗右衛門(おのそうえもん)に三百俵の知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう=主君から家臣に対し与えられた文書)を与えました。同月、成政、二万二千の大軍を率いて利家方の奥村永福(おくむら ながとみ)の立て籠る(たてこもる)末森城(すえもりじょう=現在の石川県羽咋郡宝達志水町竹生野にあった城)を攻めました。同月、利家、金沢城(かなざわじょう=現在の石川県金沢市丸の内(いしかわけん かなざわし まるのうち)にあった城)を出陣(戦争にでむくこと)しました。同月、成政軍は、前田軍に敗れて撤退(てったい=戦いに敗れてその場から退くこと)しました。利家は末森城の勝利を秀吉にほめられました。秀吉、人質の成政の次女と乳母を粟田口(あわたぐち=現在の京都市東山区・左京区にまたがる地)で磔刑(たっけい=はりつけの刑)にしました。10月、家康、織田信雄へ忠節(ちゅうせつ=主君への忠義をかたく守ろうとする気持ち)を励(はげ)まれれば成政の身については疎意(そい=避けようとする気持ち)にあつかわないと伝えました。同月、織田信雄・家康、秀吉と講和(こうわ=交戦国が、互いに協定を結んで戦争をやめ、平和を回復すること)を結び、小牧・長久手の戦いが終わりました。11月、利家、成政方の阿尾城(あお じょう=現在の富山県氷見市(ひみし)にあった城)主・菊池武勝(きくち たけかつ)を誘いました。成政、勝興寺(しょうこうじ=現在の富山県高岡市伏木古国府(たかおかし ふしきふるこくふ)にある寺院)の還住(げんじゅう=もとの場所にかえって住むこと)を許しました。同月、成政、家康に秀吉討伐(とうばつ=軍隊を送り、抵抗(ていこう=さからうこと)する者を討ちほろぼすこと)を勧める(すすめる= 相手にあることをするように働きかけること)ため富山城(とやまじょう=現在の富山県富山市丸の内(まるのうち)にあった城)を出発し、岩峅寺(いわくらじ=富山県南東部,常願寺川(じょうがんじがわ=現在の富山県中新川郡立山町(なかにいかわぐん たてやままち)および富山市を流れ富山湾に注ぐ一級河川)の谷口にある地)・芦峅寺(あしくらじ=現在の富山県中新川郡立山町にある寺社)・立山温泉(たてやまおんせん=現在の富山県中新川郡立山町にあった温泉)・さらさら峠(さらさらとうげ=富山県富山市と立山町にある峠)・針ノ木峠(はりノきとうげ=現在の長野県大町市(ながのけん おおまちし)と富山県中新川郡立山町にまたがる峠)・籠川の渓(かごかわのたに=現在の長野県大町市平日向山(おおまちし たいらひなたやま))・大町(おおまち=現在の長野県大町市大町)をへて、12月に遠江浜松城(とおとうみ はままつじょう=現在の静岡県浜松市中区元城町(はままつし なかく もとしろちょう)にある城)で家康に、同月、三河吉良(みかわ きら=現在の愛知県幡豆郡吉良町)で織田信雄に会見(かいけん=人と人とが会うこと)し、翻意(ほんい=いったんした決意を変えること)をせまりました。
以上諸説あり。