佐々成政(10/17)(1583年)

ここでは、1583年に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1583年(天正十一年)2月、弓庄城(ゆみのしょうじょう)主・土肥政繁(どい まさしげ)、成政方の安城外町(あんじょうそとまち=安田城(やすだ じょう)か、富山県富山市婦中町安田(とやまけん とやまし ふちゅうまち やすだ))に放火、城下を焼き、太田新城(おおたしんじょう=新庄城か、富山県富山市新庄町(しんじょうまち))を攻略(こうりゃく=敵を攻めて勝利すること)しました。同月、成政、越中堺川(えっちゅう さかいがわ=現在の富山県と新潟県の県境あたりを流れる二級河川)に出陣(戦場へ向かうこと)し、越後(現在の佐渡ヶ島を除く新潟県)方面に進攻(軍隊をすすめて敵を攻撃すること)しました。成政、堺(さかい=大阪湾に面し、大阪市(大坂県)の南に位置する都市)に新砦(しんさい=新しく築いた小規模な城)を築きました。4月、賤ケ岳の戦い(しずがたけのたたかい=現在の滋賀県長浜市の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉(しばた ひでよし)と柴田勝家(しばた かついえ)の戦い)には、成政は参陣(戦いに加わる)しませんでした。同月、柴田勝家が自害(じがい=自分自身を傷つけて死ぬこと)しました。成政、次女を人質として送り和議を求めました。秀吉は、成政を許し、今まで通り越中一郡を安堵(あんど=所領の知行を確認保証すること)しました。6月、成政、礪波郡赤尾(となみぐんあかお)に禁制を出しました。同月、成政、越後の新発田重家(しばた しげいえ)に書状(しょじょう=手紙)をつかわし(行かせる)、越中情勢(じょうせい=変化する物事の、現在の様子)を報じ(ほうじ=知らせる)秀吉に通じないよう求めました。7月、成政、越中平定(へいてい=(敵や賊(ぞく)で乱れた世をしずめること)後、越中出兵(しゅっぺい=軍隊を出動させること)を新発田重家に報じました。8月、成政、城生城(じょうのじょう=現在の富山県富山市八尾町城生(やつおまちじょうのう)にある寺社)を、ついで聞名寺(もんみょうじ=現在の富山県富山市八尾町今町(やつおまち いままち)にある寺社)を攻めました。同月、成政、佐々与左衛門宗能(さっさ よさえもん むねよし)に、槻尾甚助に小池与七郎晴憲に、林助右衛門尉に、石塚藤三郎資久に知行方目録(ちぎょうかたもくろく=知行している土地の目録)を与えました。同月、成政、岩峅寺(いわくらじ=現在の富山県中新川郡立山町岩峅寺(とやまけん なかにいかわぐん たてやままち いわくらじ)にある寺社)に社領(しゃりょう=神社の領地)を寄進(きしん=神社や寺院に金銭や物品を寄付すること)しました。9月、成政、前田孫四郎利長(まえだ まごしろう としなが)に利家(としいえ)不在の見舞状(みまいじょう=見舞いの手紙)を出しました。12月、成政、小池与七郎(こいけ よしちろう)に四百俵の知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう=主君から家臣に対し与えられた文書)を与えました。同月、成政、上洛(京都にいくこと)しました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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