ここでは、1582年に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1582年(天正十年)3月、織田信長(おだ のぶなが)、天目山下田野(てんもくざんしもたの=現在の山梨県東山梨郡大和村(やまなしけん ひがしやまなしぐん やまとむら))でえ武田勝頼(たけだ かつより)を討ちました(うちました=敵を打ち倒す)。成政らの織田(おだ)軍、富山城(とやま じょう=現在の富山県富山市丸の内(まるのうち)にあった城)を奪還(だっかん=うばいかえすこと)し、上杉景勝(うえすぎ かげかつ)方の魚津城(うおづじょう=現在の富山県魚津市にあった城)・松倉城(まつくらじょう=現在の富山県魚津市にあった城)を包囲しました。5月、景勝、魚津城救援(きゅうえん=災害・危険などにあっている者を助けて力づけること)のため天神山城(てんじんやまじょう=現在の富山県魚津市天神山にあった城)に陣しました(じんをかまえました)。6月2日、信長、本能寺(ほんのうじ=現在の京都府京都市中京区下本能寺前町(きょうとふ きょうとし なかぎょうく しもほんのうじまえちょう)にある寺社)で自刃(じじん=刃物を使って自らの生命を絶つこと)しました(本能寺の変)。佐々成吉の子・清蔵が、二条城で織田信忠(おだ のぶただ)とともに戦死しました。同月、魚津城が落城(らくじょう=敵に城を攻め落とされること)しました。同月、成政、鞍谷民部・諏訪三郎兵衛(すわさぶろべえ)に魚津落城を報じました。同月、羽柴秀吉(はしば ひでよし)、明智光秀(あけち みつひで)を山崎の戦い(やまざきのたたかい=大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)において行われた、羽柴軍と明智軍との戦い)で討ちました。同月、成政、新川郡本郷に制札(せいさつ=禁令・法規などを箇条書きに記して、道端や寺社の境内などに立てた札)を出しました。同月、蓮華寺(れんげじ=現在の富山県富山市婦中町蓮花寺(とやまけん とやまし ふちゅうまち れんげじ)にある寺社)に制札を出しました。同月、清州会議(きよすかいぎ=織田氏の継嗣(けいし=あとつぎ)問題及び領地再分配に関する会議)に成政は参加しませんでした。7月、成政、諏訪三郎兵衛に知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう=主君から家臣に対し与えられた文書)を与えました。8月、成政、上杉(うえすぎ)方の土肥政繁(どい まさしげ)の弓庄城(ゆみのしょう じょう=現在の富山県中新川郡上市町館にある城)を攻めました。9月、成政、埴生護国八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう=現在の富山県小谷部市埴生(とやまけんおやべしはにゅう)にある寺社)に土地を寄進(きしん=神社や寺院に金銭や物品を寄付すること)しました。
以上諸説あり。