ここでは、1568~1570年に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1568年(永禄(えいろく)十一年)9月、織田信長(おだ のぶなが)が、足利義昭(あしかが よしあき)を奉じて(に仕えて)上洛(じょうらく=京都に行くこと)の途につきました(出発しました)。六角義賢(ろっかく よしかた)の箕作城(みつくり じょう=現在の滋賀県東近江市五個荘山本町(しがけん ひがしおうみし ごかしょうやまもとちょう)にあった城)と、観音寺城(かんのんじ じょう=現在の滋賀県近江八幡市安土町(しがけん おうみはちまんし あづちちょう)にあった城)を攻略(こうりゃく=相手を打ち負かすこと)し、同月、入京(にゅうきょう=都にはいること。京都にはいること)しました。10月、義昭が、室町十五代将軍(むろまち じゅうごだい しょうぐん)に就任(ある任務につくこと)しました。
1569年(永禄十二年)8月、信長、伊勢田丸城(いせ たまる じょう=現在の三重県度会郡玉城町田丸(みえけん わたらいぐん たまきちょう たまる)にあった城)主・北畠具教(きたばたけ とものり)討伐(とうばつ=軍隊を送り、抵抗する者を討ち滅ぼすこと)のため北伊勢(きたいせ)へ侵攻(しんこう=他国や他の領地に攻め込むこと)し、成政も従軍(じゅうぐん=軍隊につき従ってともに戦地へ行くこと)しました。阿坂城(あざかじょう=現在の三重県松坂市大阿坂町(みえけん まつさかし おおあざかちょう)にあった城)と、大河内城(おかわち じょう=現在の三重県松阪市大河内町(みえけん まつさかし おかわちちょう))を攻略しました。
1570年(元亀(げんき)元年)4月、信長、朝倉義景(あさくら よしかげ)方の手筒山城(てづつやま じょう=現在の福井県敦賀市手筒町(ふくいけん つるがし てづつちょう)にあった城)を、同月、金ヶ崎城(かながさき じょう=現在の福井県敦賀市金ヶ崎町(ふくいけん つるがし かねがさきちょう)にあった城)を攻略し、成政の鉄砲隊(てっぽうたい)が大活躍(だいかつやく)しました。6月、信長、姉川の戦い(あねがわのたたかい=滋賀県長浜市(しがけん ながはまし)と、滋賀県東浅井郡浅井町(しがけん ひがしあざいぐん あざいちょう)で行われた織田軍と浅井・朝倉(あざい・あさくら)軍の戦い)で浅井長政(あざい ながまさ)と朝倉義景(あさくら よしかげ)の連合軍を撃破(げきは)しました。ついで長政の小谷城(おだに じょう=現在の滋賀県長浜市湖北町伊部(しがけん ながはまし こほくちょう いべ))を攻めました。9月、信長、一向宗(浄土宗の開祖(新たな宗派を開始した人)である法然(ほうねん)の弟子・親鸞(しんらん)を開祖とする浄土教の一派)の本拠地(活動の主なよりどころ)・摂津(せっつ=大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市中央区大阪城にあった寺院)を攻めました。同月、天満の森の戦い(てんまのもりのたたかい=大阪天満宮(大阪府大阪市北区天神橋で行われた戦い)、春日井堤の戦い(かすがいづつみのたたかい=大阪府大阪市都島区都島本通(おおさかふ おおさかし みやこじまく みやこじまほんどおり)で行われた戦い)で、成政、一番槍(いちばんやり=最初に手柄を立てること)をあげました。
以上諸説あり。