ここでは、大久保長安(おおくぼ ながやす)が死亡した年(1613年)から、伊達政宗が死去するまで(1636年)を勉強します。
1613年(慶長(けいちょう)十八年)4月、大久保長安(おおくぼ ながやす)が死亡しました。7月、長安の子息(しそく=男の子供)七人及び家臣(かしん=けらい)らが、謀反(むほん=時の為政者(いせいしゃ=政治を行う者)に反逆すること)の疑いで死刑となりました。9月、支倉常長(はせくら つねなが)の慶長遣欧使節団(けいちょうけんおうしせつだん=伊達政宗がスペイン,ローマへ派遣した使者団)がスペインに向けて出航(しゅっこう)しました。
1614年(慶長十九年)9月2日、常長がスペインに上陸(じょうりく)しました。10月、大坂冬の陣(おおさか ふゆ の じん)に参加しました。12月28日、政宗の長男・秀宗(ひでむね)が、伊予宇和島(いよわじま=現在の愛媛県宇和島市)十万石(ごく=尺貫法(しゃっかんほう)における体積(容量)の単位の一つ)を拝領(はいりょう=目上の人から物をいただくこと)しました。
1615年(慶長二十年)4月、大坂夏の陣(おおさか なつ の じん)に参加しました。5月8日、大坂城(おおさか じょう)が落城( 城が攻め落とされること)しました。7月13日、元和(げんな)と改元(かいげん=元号を変更すること)しました。9月12日、常長がローマ法王(ほうおう)に謁見(えっけん=目上の人にお目にかかること)し政宗の書簡(しょかん=手紙)を渡しました。10月、片倉小十郎景綱(かたくら こじゅうろう かげつな)が享年五十九歳でした。
1616年(元和二年)2月、危篤(きとく=病気が重くて今にも死にそうなこと)となった家康(いえやす)を見舞うため、駿府(すんぷ=現在の静岡県静岡市葵区)に向かいました。4月17日、家康が死去(しきょ)しました。享年七十五歳でした。7月、忠輝(ただてる)、大坂夏の陣の不手際(ふてぎわ=手際が悪いこと)を理由に、改易(かいえき=侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・屋敷を没収するもの)し、伊勢国(いせのくに=現在の三重県)に流されました。五郎八姫(ごろはひめ)、政宗のもとへ戻りました。
1617年(元和三年)12月、政宗の次男・忠宗(ただむね)が、池田輝政(いけだ てるまさ)の娘であり、徳川秀忠(とくがわ ひでただ)の養女となった振姫(ふりひめ)と結婚しました。
1620年(元和六年)8月26日、支倉常長は帰朝(外国に行った者が帰国すること)しました。
1622年(元和八年)8月、最上家(もがみけ)改易され、母・義姫(よしひめ=保春院)が仙台に移りました。
1623年(元和九年)7月16年、母が死去しました。享年七十六歳でした。
1625年(寛永(かんえい)二年)11年、秀忠(ひでただ)に後事(こうじ=あとのこと)をたくされました。
1629年(寛永六年)財政(ざいせい)窮乏(きょうぼう=金銭や物品が著しく不足して苦しむこと)しました。
1631年(寛永八年)11月、秀忠を見舞(みま)いました。
1632年(寛永九年)正月24日、秀忠が死去しました。享年五十四歳でした。
1636年(寛永十三年)3月、江戸城(えど じょう=現在の東京都千代田区千代田にあった城)普請課役(ふしんかえき=土木工事の役負担)が始まりました。5月、病を患った(やまいをわずらった)政宗を、徳川家光(とくがわ いえみつ)が見舞いました。5月24日、政宗は死去しました。享年七十歳でした。
以上、所説あり。