ここでは、畠山氏(はたやま し)を滅亡(めつぼう=ほろびること)させる年(1586)から、葛西大崎一揆(かさい おおさき いっき)が起きる年(1590年)までを勉強します。
1586年(天正(てんしょう)十四年)春、左京大夫(さきょう だいぶ=左京職の長官)に任ぜられました。7月、畠山氏(はたやま し)を滅亡(めつぼう=ほろびること)させて、二本松(にほんまつ=現在の福島県二本松市)を支配下(しはいか=ある者の意志・命令に従う状態にあること)におきました。
1587年(天正十五年)9月10日、秀吉(ひでよし)に馬を献上()しました。10月、最上義光(もがみ よしみつ)に通じた鮎貝宗信(あゆがい むねのぶ)を討ちました。
1588年(天正十六年)正月、大崎氏(おおさき し)と戦いました。2月、大崎氏に大敗(たいはい)しました。閏5月、相馬氏(そうま し)と戦いました。6月、佐竹・蘆名氏(さたけ・あしな し)の連合軍と戦いました。7月、佐竹・蘆名氏らと和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)しました。
1589年(天正十七年)5月、相馬氏と戦い、駒ヶ嶺城(こまがみね じょう=現在の福島県相馬郡新地町にあった城)を奪いました。6月、蘆名氏を滅(ほろ)ぼしました。7月、白河義親(しらかわ よしちか)を服属(ふくぞく=つき従うこと)させました。10月、二階堂氏(にかいどう し)を滅ぼしました。11月、石川昭光(いしかわ あきみつ)を服属させました。
1590年(天正十八年)この年、伊達家の支配地(しはいち)は最大となり、伊達・信夫・長井・会津・岩瀬・安積・田村・安達・宇多・亘理・伊具・苅田・柴田・名取・宮城・黒川(だえ・しのぶ・ながい・あいづ・いわせ・あさか・たむら・あだち・うだ・わたり・いぐ・かりた・しばた・なとり・みやぎ・くろかわ)に加え、服属した白河・石川・大崎・葛西氏(しらかわ・いしかわ・おおさき・かさい し)らの治(おさ)める領地(りょうち)を含(ふく)めると、現在の福島県・宮城県・岩手県(ふくしまけん・みやざきけん・いわてけん)にまたがる広大(こうだい)な領土(りょうど)を支配下(しはいか)に収(おさ)めていました。正月、秀吉から小田原(おだわら)参陣(さんじん=戦いに加わる)をよびかける書状が届きました。4月7日、弟である小次郎(こじろう)を斬(き)りました。5月、小田原に向かいました。6月、小田原に到着しました。会津。安積・岩瀬を秀吉に奪われました。その後、政宗は秀吉に面会し、遅参(ちさん=遅刻してくること)を謝罪(しゃざい=罪やあやまちをわびること)し、許されました。10月16日、葛西氏と大崎氏の治める地方で一揆(幕府などに反抗し地侍・農民・信徒らが起こした暴動)が勃発(事件などが突然に起こること)しました(葛西大崎一揆)。
以上諸説あり。