今川義元(7/8)(1550年~1555年)

ここでは、1550年~1555年までに、今川義元(いまがわ よしもと)が、たずさわったことを勉強します。

1550年(天文(てんぶん)十九年)3月、太原崇孚(たいげん そうふ、1496‐1555=別名・太原雪斎(たいげん せっさい))は、妙心寺(みょうしんじ=現在の京都府京都市右京区花園妙心寺町(きょうとふ きょうとし うきょうく はなぞのみょうしんじちょう)にある寺社)の住持(じゅうじ=住職)となり、五奈良天皇(ごなら てんのう、1497-1557=第105代天皇)より紫衣(しえ=出家した男女が着る紫色の衣服)を受けとりました。6月2日、義元の正室(せいしつ=身分の高い人の正妻(せいさい=正式の妻)・定恵院(じょうけいいん、1519-1550)が死去しました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)32歳でした。

1552年(天文二十一年)11月27日、義元の娘(=のちの嶺松院(れいしょういん))、武田晴信(たけだ はるのぶ、1521-1573=武田信玄(たけだ しんげん))の嫡男(ちゃくなん=正室の生んだ男子のうち最も年長の子)・義信(よしのぶ、1538-1567)の正室となりました。

1553年(天正二十二年)2月26日、義元は、『仮名目録追加(かなろくもくついか)』二十一か条(=父・今川氏親(いまがわ うじちか、1471-1526)が制定(せいてい=きまりなどを定めること)した『今川仮名目録』に追加、訂正された分国法(ぶんこくほう=戦国大名が領国内を統治(とうち=まとめおさめること)するために制定した基本的な法典(ほうてん=きまり))を制定しました。

1554年(天正二十三年)7月、北条氏康(ほうじょう うじやす、1515-1571)の娘・早川殿(はやかわどの、-1613)が、義元の嫡男・氏真(うじざね、1538-1614)の正室となりました。12月、武田晴信の娘が、北条氏康の次男(嫡子(ちゃくし=正妻の生んだ子))・氏政(うじまさ、1538-1590)の正室となりました。これにより、駿甲相三国同盟(すんこうそう さんごくどうめい=甲相駿はそれぞれ甲斐(かい=現在の山梨県(やまなしけん))・相模(さがみ=神奈川県(かながわけん)北東部を除く全域)・駿河(するが=静岡県(しずおかけん)中部・北東部(大井川以東))を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意)が成立しました。

1555年(天正二十四年)3月、松平竹千代(まつだいら たけちよ、=のちの徳川家康(とくがわ いえやす))が、元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式(ぎしき))して義元より名の一字を与えられ、松平元信(まつだいら もとのぶ)と名乗りました。閏10月10日、太原崇孚が亡くなりました。享年60歳でした。同月15日、義元は、武田晴信と長尾景虎(ながお かげとら、=のちの上杉謙信(うえすぎ けんしん))を仲介(ちゅうかい=間に入ること)し、講和(こうわ=交戦国が合意のもとに戦争をやめ、平和を回復すること)を結ばせました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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