今川義元(6/8)(1547年~1549年)

ここでは、1547年~1549年までに、今川義元(いまがわ よしもと)が、たずさわったことを勉強します。

1547年(天文(てんぶん)十六年)この頃、今川義元は、今川氏(いまがわ し)へ人質(ひとじち)として送られた松平広忠(まつだいら ひろただ、1526-1549)の長男・竹千代(たけちよ、=のちの徳川家康(とくがわ いえやす))を、織田方(おだ がた)に奪(う)われ、尾張国熱田(おわりのくに あつた=現在の愛知県名古屋市熱田区(あいちけん なごやし あつたく))で織田氏の人質となりました。9月、今川勢(ぜい)は、三河国田原(みかわのくに たはら=現在の愛知県田原市)で戸田康光(とだ やすみつ、-1547=初名(しょめい=最初の名前)は宗光(むねみつ))を破(やぶ)りました。

1548年(天文十七年)3月17日、義元は、臨済寺(りんざいじ=現在の静岡県静岡市葵区大岩町(しずおかけん しずおかし あおいく おおいわちょう)にある寺社)で兄・氏輝(うじてる、1513-1536)の十三回忌法要(じゅうさんかいき ほうよう=亡くなってから満12年(亡くなった日と同月同日)に僧侶(そうりょ=お坊さん)が行う供養(くよう=供え物(そなえもの)をして冥福(めいふく=死後の幸福)を祈ること)の儀式)を行いました。同月19日、今川勢は、三河国小豆坂(みかわのくに あずきざか=現在の愛知県岡崎市(おかざきし))で織田勢と戦い勝利しました(第二次小豆坂の合戦(だいにじ あずきざか の かっせん)=今川・松平(まつだいら)連合軍と織田軍との戦い)。4月、義元は、妙心寺(みょうしんじ=現在の京都府京都市右京区花園妙心寺町(きょうとふ きょうとし うきょうく はなぞのみょうしんじちょう)にある寺社)の大休宗休(だいきゅう そうきゅう、1468-1549)を招(まね)き、臨済寺住持(じゅうじ=住職)としました。宗休は、義元に秀峰宗哲(しゅうほう そうてつ)の法名(ほうみょう=浄土真宗で真の仏弟子(しんのぶつでし=おしゃかさまの教えを聞かれて、本当の幸せになった人)が生前(せいぜん=その人が生きていた時)、仏教(おしゃかさまによって創唱(そうしょう=最初に唱えること)された教え。キリスト教,イスラムと並ぶ世界三大宗教の一つ)の師匠(ししょう)から頂く名前)を授(さず)けました。

1549年(天文十八年)2月13日、義元は、朝廷(ちょうてい=天皇が政治を行う所)より従四位下(じゅしいのげ=位の一つ。従四位上の下、正五位上の上)に任ぜられました。11月8日、義元は、太原崇孚(たいげん そうふ、1496‐1555=別名・太原雪斎(たいげん せっさい))を派兵(はへい=兵をさしむけること)して、三河国安祥城(みかわのくに あんじょうじょう=現在の愛知県安城市安城町(あんじょうし あんじょうちょう)にあった城)を攻め、織田信秀(おだ のぶひで、1511-1552=織田信長(おだ のぶなが、1534-1582)の父)の庶長子(しょちょうし=正室ではない女性から生まれた子供)・信広(のぶひろ、-1574=信長の兄)を捕(と)らえました。11月9日、織田信広と松平竹千代の人質交換が行われ、竹千代は駿府(すんぷ=現在の静岡県静岡市葵区))に送られました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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