ここでは、1534年~1536年までに、今川義元(いまがわ よしもと)が、たずさわったことを勉強します。
1534年(天文(てんぶん)三年)この年、栴岳承芳(せんがく しょうほう=のちの今川義元)は、師(し=ししょう)の九英承菊(くえい しょうぎく=のちの太原崇孚(たいげん そうふ)、別名・太原雪斎(たいげん せっさい)、1496‐1555)に従って上洛(じょうらく=京都に行くこと)し、建仁寺護国院(けんにんじ ごこくいん=現在の京都府京都市東山区(ひがしやまく)にある建仁寺開山堂(かいざんどう))、妙心寺(みょうしんじ=現在の京都府京都市右京区(うきょうく)にある寺社)などで修業(しゅぎょう)しました。
1535年(天文四年)7月、今川勢(いまがわ ぜい)は、北条氏(ほうじょう し)の加勢(かぜい=助けること)を得(え)て、甲斐国(かいのくに=現在の山梨県(やまなしけん))に侵入(しんにゅう)しました。駿河(するが=現在の静岡県(しずおかけん)中部)・甲斐の国境付近(こっきょう ふきん)で武田勢(たけだ ぜい)と戦いました。
1536年(天文五年)3月17日、長兄(ちょうけい=一番上の兄)・今川氏輝(うじてる、今川氏10代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)、1513-1536)と次兄(じけい=二番目の兄)・今川彦五郎(ひこごろう、-1536)、同じ日に死去(しきょ=死ぬこと)しました。氏輝の享年(きょうねん=死んだ時の年齢)は24歳、彦五郎の享年はわかりません。4月27日、栴岳承芳と庶兄(しょけい=母親の違う兄)・玄広恵探(げんこう えたん、1517-1536)の間で、家督(かとく=あとつぎ)争いが起きました(花倉の乱(はなぐら の らん))。5月3日、室町幕府(むろまちばくふ)十二代将軍(しょうぐん)・足利義晴(あしかが よしはる、1511-1550)が、近習(きんじゅ=将軍のそば近くに仕える者)の大舘晴光(おおだち はるみつ、-1565)に書状(しょじょう=手紙)を出させ、栴岳承芳に今川家の家督相続(かとく そうぞく=あとつぎをうけつぐこと)を認(みと)め、将軍の名の一字を与えると知らせました。承芳は、今川家の家督を継いで義元と名乗りましたが、同月24日、母・寿桂尼(じゅけいに)は、玄広恵探に味方しました。同日、栴岳承芳派と玄広恵探派の軍勢が、駿府(すんぷ=現在の静岡県静岡市葵区(しずおかけん しずおかし あおいく))で戦いました。6月8日、北条勢が駿河国に攻め入り、玄広恵探派の軍勢(ぐんぜい=軍隊(ぐんたい))と戦いました。同月9日・10日、義元は、自(みずか)ら今川家当主として黒印状(こくいんじょう=将軍・大名などが墨(すみ)を用いて押印(おういん=印を押すこと)した文書)を発給(はっきゅう=出して与えること)しました。14日、栴岳承芳の軍勢は、花倉城(はなくらじょう=現在の静岡県藤岡市花倉(ふじえだし はなぐら)にあった城)を攻め、玄広恵探が、瀬戸谷(せとのや=現在の静岡県藤枝市)の普門寺(ふもんじ)で自害(じがい=自分自身を傷(きず)つけて死ぬこと)しました。享年20歳でした。8月10日、義元は、公卿(くぎょう=公(こう))と卿(けい)の総称。公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝廷(天皇と貴族からなる中央政権)につかえる役人)の三条西実隆(さんじょう にしさねたか、1455-1537)に家督相続のお礼の品を贈(おく)りました。
以上諸説あり。