今川義元(2/8)(1522年~1532年)

ここでは、1522年~1526年までに、今川義元(いまがわ よしもと)が、たずさわったことを勉強します。

1522年(大永(だいえい)二年)この年、方菊丸(ほうぎくまる=のちの今川義元)は、僧(そう=お坊さん)となるため、駿河国富士郡(するがのくに ふじごおり=現在の静岡県富士市(しずおかけん ふじし))の善得寺(ぜんとくじ)に入りました。養育係(よういくがかり=子どもの育成)は九英承菊(くえい しょうぎく=のちの太原崇孚(たいげん そうふ)、別名・太原雪斎(たいげん せっさい)、1496‐1555)でした。

1525年(大永五年)11月、方菊丸の長兄(ちょうけい=一番上の兄)・龍王丸(たつおうまる、1513-1536)が元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式)して、氏輝(うじてる=今川氏の10代当主)と名乗りました。

1526年(大永六年)4月、父・今川氏親(いまがわ うじちか、1473-1526)が『今川仮名目録(いまがわかなもくろく)』三十三か条(社寺から税金を取ったり、社寺に逃げ込んだものを捕まえることを否定した「守護不入の権」の撤廃をうたったもの)を定め、6月23日、氏親は亡(な)くなりました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)五十四歳でした。7月、氏親の葬儀(そうぎ)が駿河国安倍郡増善寺(あべごおり ぞうぜんじ=現在の静岡県静岡市葵区慈悲尾(あおいく しいのお)にある寺院)で営(いとな)まれ、方菊丸も参列(さんれつ)しました。この年、方菊丸の兄・氏輝が家督(かとく=あとつぎ)を継ぐが、14歳と若年(じゃくねん=年が若いこと)のため、母・寿桂尼(じゅけいに)が後見人(こうけんにん=判断能力が不十分と考えられる者を補佐(ほさ=人をたすけて、その務めを果たさせること)する者)となりました。

1527年(大永七年)この年、兄・氏輝が、甲斐国(現在の山梨県(やまなしけん))の守護大名(しゅごだいみょう=室町時代に領主となった守護(治安(ちあん=世の中をやすらかに治めること)・警備(けいび=思いがけない事件にそなえ、注意して守ること)に当たる地方の役人))・武田信虎(たけだ のぶとら=武田信玄(たけだ しんげん、1521-1573)の父、1493-1574)と和睦(わぼく= 争いをやめて仲直りすること)しました。

1530年(享禄(きょうろく)三年)この頃、方菊丸は、得度(とくど=髪をそって、お坊さんになること)して承芳(しょうほう)と号しました(ごうしました=なずけられました)。

1532年(天文(てんぶん)元年)この年の夏、承芳は、建仁寺(現在の京都府京都市東山区(きょうとふ きょうとし ひがしやまく)にある寺社)住持(じゅうじ=住職(じゅうしょく))の月舟寿桂(げっしゅう じゅけい、1470-1533)から、道号(どうごう=仏道に入ってつけた名)・栴岳(せんがく)を賜りました(たまわりました=もらいました)。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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