井伊直政(1/8)(1560年)

 井伊直政(いい なおまさ)は「徳川四天王(とくがわ してんのう)」のひとりです。女武将(ぶしょう=武士の大将)の井伊直虎(いい なおとら)に育てられました。15歳のとき、鷹狩り(たかがり=)に出ていた34歳の徳川家康(いえやす)と出会い、家臣(かしん=けらい)にしてもらいました。家康の寝ているところへしのびこんだスパイをうち取るなど、数々の手柄(てがら=めざましい働き)を立て、家康に深く信頼(しんらい)される家臣に成長(せいちょう)しました。武田家(たけだ け)がほろびた後、家康の命令で、武田家の「赤備え(あかぞなえ)」を引き継ぎました。赤添えとは、甲冑(かっちゅう=具足(よろいとかぶとのこと)・馬具(ばぐ=人間が馬を制御(せいぎょ=おさえつけて自分の意のままにすること)するために馬に装着させる道具)などをすべて赤でそろえた武田家の最強部隊です。直政が率いてからは「井伊の赤備え」と呼ばれ、家康の合戦(かっせん=)ではいつも大活躍(だいかつやく)しました。直政は、「井伊の赤鬼(あかおに)」と呼ばれて恐れられていました。関ヶ原(せきがはら)の戦いでは、先陣(せんじん=最初に攻撃(こうげき)する部隊(ぶたい=軍隊の一組織))は福島正則(ふくしま まさのり)に決まっていたが、手柄(てがら)を立てたかった直政は、「偵察中(ていさつちゅう)」とうそをついて福島隊の前に進み、最初に鉄砲(てっぽう)を発砲(はっぽう=鉄砲を撃つこと)して戦いを開始しました。そして、徳川軍(東軍)を勝利(しょうり)に導きました(みちびきました=そうなるようにしむけること)。直政は、戦いに優れていただけでなく、政治をおこなう能力も高かった。江戸幕府(えどばくふ)の組織づくりなどにも加わり、家康をたすけ続けました。しかし、関ヶ原の戦いで受けた傷がもとで病気になってなくなりました。

ここでは、井伊直政(いい なおまさ)が生まれた1560年を勉強します。

1560年(永禄(えいろく)三年)5月、織田信長(おだ のぶなが)、尾張国(おわりのくに=現在の愛知県西部(あいちけん せいぶ))桶狭間(おけはざま)で、駿河国(するがのくに=現在の静岡県中部(しずおかけん ちゅうぶ))と遠江国(とおとうみのくに=現在の静岡県西部(しずおかけん せいぶ))の大大名(だいだいみょう)・今川義元(いまがわ よしもと)を破りました(桶狭間の合戦)。義元は討ち死にました(うちじにました=戦死)。享年(きょうねん)42歳でした。これを受けて、今川氏の属将(ぞくしょう=ある大将に属していること)だった松平元康(まつだいら もとやす=のちの徳川家康)は、本拠(ほんきょ=活動の主なよりどころ)の三河国(みかわのくに=現在の愛知県岡崎市(あいちけん おかざきし))・岡崎城(おかざき じょう)に帰城(きじょう=自分の城に帰ること)し、今川氏からの独立を果たしました。

以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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