井伊直政(6/8)(1587年~1590年)

ここでは、1587年~1590年までに、井伊直政(いい なおまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1587年(天正(てんしょう)十五年)8月、直政は、侍従(じじゅう=君主のそばに仕える人)に任じられました(にんじられました=ある職務・役目につかせる)。

1588年(天正十六年)4月、直政は、従五位下(じゅごいのげ=位階(いかい=地位)の一つ。従五位上(じゅごいのじょう)の下、正六位上(せいろくいのじょう)の上。)に叙され(じょされ=順序に従って位階などをさずける)、後陽成天皇(ごようせいてんのう=第百七代天皇)の聚楽第(じゅらくてい=豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が京都(現在の京都府京都市上京区)にたてた邸宅(ていたく=やしき))行幸(ぎょうこう=天皇の外出)に徳川家康(とくがわ いえやす)とともに陪席(ばいせき=身分の高い人と同席すること)しました。

1590年(天正)2月、直政の長男(ちょうなん=嫡子(ちゃくし=その家を継ぐべき子))・直継(なおつぐ=のちの直勝(なおかつ))、次男(じなん=庶子(しょし=正妻でない女性の生んだ子))・直孝(なおたか)が生まれました。同月、直政は、秀吉の小田原(おだわら=現在の神奈川県小田原市(かながわけん おだわらし))征討(せいとう=反逆する者などをせめうつこと)に徳川軍の先鋒(せんぽう=軍隊の一番先に立って進むもの)として出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)しました。その後、直政は、相模国小田原城(さがみのくに おだわらじょう=現在の神奈川県小田原市にある城)の外郭(そとぐるわ=城の最外部に築きめぐらした石または土のかこい)・篠郭(しのぐるわ=小田原城の東方に位置した出丸(でまる=本城から張り出して設けられた曲輪(くるわ=城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称)))を攻めて功(こう=てがら)を立てました。7月、北条氏直(ほうじょう うじなお)は、秀吉に降伏(こうふく=こうさん)しました(北条氏滅亡(めつぼう=ほろびること))。8月、秀吉は、家康を関東に移封(いふう=大名などを他の領地へ移すこと)しました。この時、直政は上野国箕輪城(こうずけのくに みわのわじょう=現在の群馬県高崎市箕郷町(ぐんまけん たかさきい みさとまち)にあった城)十二万石(じゅうにまんごく=主君(しゅくん=君主)から臣下(しんか=けらい)に与えられた土地)を与えられました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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