ここでは、1573年~1582年までに、井伊直政(いい なおまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1573年(元亀(げんき)四年)4月、武田信玄(たけだ しんげん)、病(やまい)により死去(しきょ=なくなること)しました。享年(きょうねん=「天から享(う)けた年数」という仏教用語で、亡くなった方がこの世に存在した年数という意味を指す言葉)53でした。
1575年(天正(てんしょう)三年)2月、虎松(とらまつ=のちの井伊直政)、浜松城下(現在の静岡県浜松市(しずおかけん はままつし)で放鷹中(ほうようちゅう=飼いならした鷹を放って鳥などを捕えること)の家康(いえやす)と遭遇(そうぐう=思いがけず、めぐり合うこと)して家康に仕え、名を万千代(まんちよ)と改めました。5月、織田(おだ)・徳川(とくがわ)連合軍、三河国長篠・設楽原(みかわのくにながしの・したらがはら=現在の愛知県新城市(あいちけん しんしろし))で武田信玄の後継者(こうけいしゃ)・勝頼(かつより)を破りました(長篠・設楽原の合戦)。
1576年(天正四年)2月、遠江国芝原(とおとうみのくに しばはら=現在の静岡県袋井市(しずおかけん ふくいし))で家康が武田勝頼と戦っており、万千代はそこで初陣(ういじん=初めて戦いに出ること)を飾りました(かざりました=勝利しました)
1581年(天正九年)3月、万千代、遠江国高天神城(とおとうみのくに たかてんじんじょう=現在の静岡県掛川市(しずおかけん かけがわし)にあった城)を家康が攻めたおり、従軍(じゅうぐん=軍隊につき従って、ともに戦地へ行くこと)し、てがらを立てました。
1582年(天正十年)3月、勝頼、織田・徳川連合軍に攻められ、甲斐国天目山の麓(かいのくに てんもくざんのふもと=現在の山梨県甲府市(やまがたけん こうふし))で自刃(じじん= 刀物で自分の生命を絶つこと )しました。享年37でした(武田氏滅亡(めつぼう=ほろびること))。5月、万千代、家康の上洛(じょうらく=京都に行くこと)に小姓組(こしょうぐみ=武家の職名)の一人として従いました。6月2日、信長(のぶなが)、京の本能寺(ほんのうじ=京都府京都市中京区本能寺前町にある寺院)で明智光秀(あけち みつひで)の謀叛(むほん=時の為政者(いせいしゃ=政治を行う者)にさからって兵を起こすこと)に遭い(あい=好ましくない出来事が身に及ぶこと )、自刃しました(本能寺の変)。享年49でした。この時、万千代、家康とともに堺(さかい=現在の大阪府中南部、大阪湾に面する市)から三河国(みかわのくに=現在の愛知県東半部)に戻りました(神君伊賀越え(しんくんいがごえ))。同月、羽柴(はしば=のちの豊臣)秀吉(ひでよし)、山崎の合戦(やまざきのかっせん)で明智光秀を破りました。8月26日、井伊直虎(いい なおとら)が亡くなりました。同月以降、直政、家康の甲斐国(かいのくに=現在の山梨県(やまなしけん))・信濃国(しなのくに=現在の長野県)計略(けいりゃく=もくろみ)に際して、取次役(とりつぎやく=仲介役)を努めました。10月、万千代は元服(げんぷく=男子が成人に達したことを示すための儀式)し、直政を名乗りました。この頃、直政は、家康より木俣守勝(きまた もりかつ)らを与力(よりき=大名や有力武将に従う下級武士)としてつけられるとともに、武田遺臣(たけだいしん=滅亡した武田の旧家臣)の一部もつけられ、軍装を朱色(しゅいろ)に統一するよう命じられました。
以上諸説あり。