ここでは、1565年~1572年までに、井伊直政(いい なおまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1565年(永禄(えいろく)八年)この年、井伊家の当主(とうしゅ=その家の現在の主人)・次郎法師(じろう ほうし=のちの井伊直虎(なおとら))、遠江国龍潭寺(とおとうみのくに りょうたんじ=現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷(しずおかけん はままつし きたく いなさちょう いいのや)にある寺)に寄進状(きしんじょう=神社や寺院に金銭や物品を寄付する際の品目、理由などを記した文書)を書きました。
1566年(永禄九年)この年、松平家康(まつだいら いえやす)、姓(せい=みょうじ)を徳川(とくがわ)に改めました(あらためました=変えました)(徳川家康)。
1568年(永禄十一年)12月、武田信玄(たけだ しんげん)、駿河国駿府(するがのくに すんぷ=現在の静岡県静岡市(しずおかけん しずおかし))に侵攻(しんこう=敵地に侵入して攻めること)しました。氏真(うじざね)、遠江国懸川城(とおとうみのくに かけがわじょう=現在の静岡県掛川市(しずおかけん かけがわし))に逃れました。この年、直政、三河国鳳来寺(みかわのくに ほうらいじ=現在の愛知県新城市(あいちけん しんしろし)にある寺)に逃れました。
1569年(永禄十二年)5月、氏真(うじざね)、懸川城を家康に譲り(ゆずり=自分の物・地位・権利などを他人に与えること)、相模国(現在の神奈川県(かながわけん)の大半)の北条氏直(ほうじょう うじなお)をたよりました(今川氏滅亡(めつぼう=ほろびること))。
1570年(元亀(げんき)元年)6月、織田(おだ)・徳川連合軍、近江国姉川(現在の滋賀県長浜市(しがけん ながはまし)に浅井(あざい)・朝倉(あさくら)連合軍を破りました(姉川の合戦)。この年、家康、本拠(ほんきょ)を遠江国浜松城(とおとうみのくに はままつじょう=現在の静岡県浜松市(しずおかけん はままつし)にあった城)へ移しました。
1572年(元亀三年)12月、信玄、遠江国三方ヶ原(とおとうみのくに みかたがはら=現在の静岡県浜松市(しずおかけん はままつし))で家康を破りました(三方ヶ原の戦い)。この年、虎松(とらまつ=のちの井伊直政)、母親が浜松の松下源太郎清景(まつした げんたろう きよかげ)に再嫁(さいか=女性が再婚すること)したのにともない、以後、松下家で養育(よういく=やしなってそだてること)されました。
以上諸説あり。