ここでは、1561年~1564年までに、井伊直政(いい なおまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1561年(永禄(えいろく)四年)2月19日、井伊直政、今川氏(いまがわ し)の属将(ぞくしょう=)・井伊直親(なおちか)の長男として、遠江国井伊谷(とおとうみのくに いいのや=現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷(しずおかけん はままつし きたく いなさちょう いいのや))に生まれました。母は奥山親朝(おくやま ちかとも)の娘でした。幼名(ようみょう=おさない時の名)は虎松(とらまつ)と命名(めいめい=名前を付けること)されました。
1562年(永禄五年)正月、織田信長(おだ のぶなが)、尾張国清洲城(おわりのくにきよすじょう=現在の愛知県清須市(あいちけん きよすし)にあった城)で、松平元康(まつだいら もとやす=のちの徳川家康(とくがわ いえやす))と同盟(どうめい=共通の目的を達成するため、同じ行動をとることを約束すること)をむすびました(清州同盟)。この年、父・直親、今川氏に叛意(はんい=そむこうとする意志)を抱いたとして(いだいたとして=ある考え・気持ちを心の中にもったとして)、義元(よしもと)の後継者(こうけいしゃ=あとをつぐもの)・氏真(うじざね)の命で殺されてしまいました。その後、虎松は、同じ今川氏の家臣(かしん=けらい)で、井伊家と縁戚(えんせき=しんせき)の新野親短(にいの ちかのり)に引き取られました。
1563年(永禄六年)7月、元康、家康に改名(かいめい=名前を変えること)しました(松平家康=まつだいら いえやす=のちの徳川家康)。
1564年(永禄七年)3月、家康、三河一向一揆(みかわ いっこういっき=三河国で、徳川家康に対立、対抗して蜂起(ほうき=大勢の者が一斉に行動を起こすこと)した一向一揆(浄土真宗(一向宗)門徒が起こした一揆(いっき=何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること)))を鎮圧(ちんあつ=力をもっておさえつけしずめること)しました。この年、新野親短が戦死し、虎松は遠江国浄土寺(とおとうみのくに じょうどじ=現在の静岡県浜松市中区広沢(しずおかけん はままつし なかく ひろさわ)にある寺)へ逃(のが)れました。
以上諸説あり。