ここでは、謙信が病死する(1577年から1578年)までを勉強します。
1577年(天正五年)謙信、能登北部(のとほくぶ=現在の石川県北部)に侵攻(他国を攻め込むこと)し、富木(とぎ=現在の石川県羽昨志賀町八幡)・熊木(くまき=現在の石川県七尾市)・穴水(あなみず=現在の石川県鳳珠郡穴水町)などの諸城を攻略し、3月5日、直江景綱(なおえ かげつな)が死去しました。5月中旬越山(こしやま=越後国から関東地方への出陣)し、上野新田領(こうずけ(現在の群馬県) にった りょう)・足利領(あしかが りょう)を攻撃しました。閏7月初旬謙信、能登七尾城(のと ななお じょう=現在の石川県七尾市古城町にあった城)を攻めました。9月15日謙信、七尾城に籠城(ろうじょう=立てこもる)する遊佐続光(ゆさ つぐみつ)が内通(ないつう=内部の者がひそかに敵に通ずること)し城内へ引き入れたため、七尾城攻略を果たしました。9月17日謙信、末森城(すえもりじょう=現在の石川県羽咋郡宝達志水町竹生野にあった城)を攻略し、山浦国清(やまうら かげくに)と斎藤朝信(さいとう とものぶ)を配す(配置しました)。その間加賀(かが=現在の石川県南部)へ侵攻し、9月23日夜、織田(おだ)勢を敗北させ、一千余人(いっせんよにん)を討ち取りました。9月26日七尾城の普請(ふしん=家を建築したり修理したりすること)に着手しました。10月25日能登各城に鰺坂長実(あじさか ながざね)と遊佐盛光(ゆさ もりみつ)の連署(れんしょ=同じ書面に二名以上の人がならべて署名すること)の十三箇条制札(じゅうさんかじょうせいれい)を掲げました。11月16日飯田氏(いいだし)・島倉氏(しまくらし)らに能登珠洲郡(のとすずぐん=現在の石川県鳳珠郡)内の知行(ちぎょう=土地)を宛行ない(あておこない)、能登一宮気多神社(のと いちのみや けたじんじゃ=現在の石川県羽昨市寺家町クにある寺社)の社領(しゃりょう=神社の領地)を一時的に三宅長盛(みやけ ながもり)に預けました。12月謙信、能登(のと=現在の石川県北部)から能登畠山義隆(はたけやま よしたか)の室(妻)と息子を連れて春日山城(かすがやま じょう=現在の新潟県上越市にあった城)に帰りました。
1578年(天正六年)3月9日謙信、「不慮の虫気(ふりょのむしけ=思いがけなく掛かる、痛みを伴う腹の病気)」により倒れ、意識不明のまま13日死去しました。
以上諸説あり。