ここでは、謙信の1575年から1576年までを勉強します。
1575年(天正(てんしょう)三年)1月11日謙信、長尾顕景(ながお あきかげ)に上杉景勝(うえすぎ かげかつ)と名乗りを改めさせ、自身の官途名(かんどな=中央の官職名)弾正少弼(だんじょう しょうひつ=弾正台(だんじょうだい)の下)を譲り与えました。2月16日越後(えちご=現在の佐渡ヶ島を除く新潟)の領主の軍役帳(大名が家臣の軍役割り当てのために作成した帳面)を作成しました。6月越中(えっちゅう=現在の富山県)で寺島盛徳(てらしま もりのり)が謙信に叛旗(はんき=政治を行う者に反逆した人の立てる旗)を翻す(ひるがえす=急に態度を変えることのたとえ)が、鎮圧(騒ぎなどを力でおさえしずめること)しました。10月謙信、武田勝頼(たけだ かちより)と和議(わぎ=仲直りの相談)を結びました。12月15日能登(のと)守護(しゅご=職制の一。守護代の上)畠山家(はたけやまけ)の重臣(重要な職務につく家臣)、遊佐盛光(ゆさ もりみつ)・三宅長盛(みやけ ながもり)・平高地・長綱連(ちょう つなつら)・温井景隆(ぬくい かげたか)、謙信に能登(のと)への出馬を要請(ようせい=必要だとおもい強く願い求める)しました。
1576年(天正四年)備後鞆(びんごとも=現在の広島県福山市鞆町後地)の将軍足利義昭(あしかが よしあき)、謙信に幕府(ばくふ=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=幕府政権の長たる者の称)を長とする武家政権)を再興(さいこう=勢いを盛り返すこと)への助力(じょりょく=手助け)を要請しました。4月本願寺(ほんがんじ)、謙信との和睦交渉(わぼく こうしょう=仲直りするための話し合い)に入りました。5月本願寺(ほんがんじ)との講和(こうわ)を承諾(しょうだく)しました。5月18日加賀一向一揆衆(かが いっこういっきしゅう=加賀の浄土真宗本願寺派による暴動)の一人奥政堯(おく まさたか)、吉江資堅(よしえ すけかた)、鰺坂長実(あじさか ながざね)に和議(わぎ=仲直りの相談)の書を受け取ったことを知らせました。5月毛利輝元(もうり てるもと)、謙信に上洛(じょうらく=地方から京都に行く)を呼びかけました。9月初旬越中栂尾(えっちゅう とがお=現在の富山県富山市)・増山城(ますやまじょう=現在の富山県砺波市にあった城)を陥落(攻め落とす)させ、飛驒口(ひだぐち=現在の岐阜県飛彈市)に城を築いて仕置(こらしめのために罰すること)を堅固(けんご=守りがしっかりしていて、攻められても容易には破られないこと)にし、さらに湯山城(ゆやま じょう=現在の富山県氷見市にあった城)に向かいました。
以上所説あり。