ここでは上杉謙信の1573年から1574年までを勉強します。
1573年(元亀(げんき)四年、天正(てんしょう)元年)謙信、正月を越中(えっちゅう=現在の富山県)の陣所(じんしょ=戦場で軍勢が集結して待機している所)で迎(むか)えました。正月、加賀・越中(かが・えっちゅう=石川県南部・富山県)の一向一揆方(浄土真宗本願寺派による暴動)が和平(わへい)を提案(ていあん)したため和議(わぎ=和睦(争いをやめて仲直りすること)のための協議)を結ぶことにしました。謙信は、富山城(とやまじょう=富山県富山市丸の内にあった城)を押さえ帰路(きろ)につくが、途中(とちゅう)、武田信玄(たけだ しんげん)の使者長延寺(ちょうえんじ=現在の神奈川県横浜市戸塚区下倉田町にある永勝時)の実了(じつりょう)の画策(かくさく=計画を立てその実現に努めること)で、一向一揆(いっこういっき=浄土真宗本願寺派による暴動)勢が富山城にもどったため、謙信も引き返しました。謙信、稲荷・岩瀬・本郷・二宮・押上に富山城への向城を五日間で築くことを命令しました。謙信、神奈川以東(神奈川県より東部)を制圧しました。4月21日、春日山(かすがやま=現在の奈良県奈良市)に帰城(きじょう)しました。8月、謙信は再び、越中(えっちゅう=現在の富山県)へ出陣しました。この年、軍隊を休めるため、越山(こしやま=越後国から関東地方へ出陣すること)をやめました。
1574年(天正二年)謙信、正月を春日山(かすがやま=現在の奈良県奈良市)で過ごし、26日出陣を命じ、2月5日上野沼田に着陣しました。謙信、赤堀(現在の群馬県伊勢崎市)・善(現在の群馬県前橋市)・山上(現在の群馬県桐生市)・女淵(現在の群馬県前橋市)の各城を攻略し、3月10日深沢城(ふかざわ じょう=現在の群馬県桐生市黒保根町にあった城)に進みました。深沢の阿久沢(あくざわ)兄弟、謙信に従属(じゅうぞく=強いものに依存して、それにつき従うこと)しました。3月13日御覧田城(ごらんだ じょう=現在の群馬県みどり市東町萩原にあった城)を落としました。3月26日謙信、由良成繁(ゆら なりしげ)の本拠金山城(かなやま じょう=現在の群馬県太田市にある城)を攻めるため、藤阿久(ふじあぐ=現在の群馬県太田市藤阿久町)に陣を取りました。北条氏政(ほうじょう うじまさ)勢が羽生(はにゅう=現在の埼玉県羽生市)近辺に出陣したため、金山(かなやま=現在の群馬県太田市)攻めを取りやめ大輪に陣を移し、利根川を挟んで氏政(うじまさ)の軍勢と対陣(陣を向かい合って構えること)しました。北条軍(ほうじょうぐん)、15日本田(ほんだ=現在の埼玉県深谷市)に引き上げ、謙信、赤石城(あかいし じょう=現在の群馬県伊勢崎市にあった城)に向け今村城(いまむら じょう=現在の群馬県伊勢崎市にあった城)を強制的に取りあげました。7月下旬、厩橋(うまやばし=群馬県前橋市にある橋)より北条氏政の軍勢が上野(こうずけ=現在の群馬県)に攻め入ったとの知らせを受け、7月26日上条政繁・上杉景信(じょうじょう まさしげ・うえすぎ かげのぶ)らを沼田に遣(つか)わし、8月初旬関東へ出陣しました。11月7日利根川を越え、武蔵鉢形城下(むさし はちがたじょう か=現在の埼玉県寄居町)・成田領(現在の埼玉県行田市)・上田領(現在の埼玉県東松山市)を放火し、深谷(ふかや=現在の埼玉県深谷市)の上杉憲盛(うえすぎ のりもり)より北条勢が撤退(てったい=引き上げること)したとの知らせを受けて、利根川を越え、新田領(現在の群馬県太田市)を放火し、金山城に対峙(たいじ=対立するものどうしが動かないここと)して陣(軍勢を配置)を張りました。さらに、新田・舘林・足利領を放火し、20日下野只木山(しもつけ ただきやま=現在の栃木県足利市)へ着き、一日人馬を休めたのち、22日佐野(さの=現在の栃木県佐野市)と藤岡(ふじおか=現在の栃木県藤岡町)の間にある沼尻(ぬまじり=現在の栃木県藤岡町)に着陣しました。23日小山秀綱(おやま ひでつな)と簗田晴助(やなだ はるすけ)を招いて談合(だんごう=話し合ったうえ決定する)しました。閏11月羽生城が落ちてしまい、簗田持助(やなだ もちすけ)、関宿城(せきやど じょう)を明け渡わたしました。結城晴信・佐竹義重・宇都宮広綱(ゆうき はるのぶ・さたけ よししげ・うつのみや ひろつな)、北条方につきました。12月高野山無量光院(こうやさん むりょうこういん=現在の和歌山県伊都郡高野町高野山にある寺院)の宝幢寺清胤(ほうどうじ せいいん)を師として出家し、法印大僧正(ほういん だいそうじょう=僧の最高の位)となりました。
以上所説あり。