上杉謙信(8/11)(1571年~1572年)

ここでは、上杉謙信の1571年から1572年までを勉強します。

1571年(元亀(げんき)二年)正月、武田信玄(たけだ しんげん)、北条方の駿府深沢城(すんぷ ふかざわ=現在の静岡県御殿場市深沢にあった城)を攻めました。1月20日北条氏政(ほうじょう うじまさ)、謙信に援軍(えんぐん)を要請(ようせい)しました。謙信自身は出馬せず、直江景綱(なおえ かげつな)、栗林政頼(くりばやし まさより)を上野沼田(こうずけ ぬまた=現在の群馬県北部)へ派遣(はけん)しました。3月上旬謙信、越中(えっちゅう=現在の富山県)へ向け出陣し、他の敵城十余カ所(ほかのてきじょうとよかしょ)を落城させ帰陣(きじん=戦いを終えて帰ること)しました。11月謙信、信玄(しんげん)と結んだ佐竹義重(さたけ よししげ)に攻められた常陸(ひたち=現在の茨城県の大部分)の小田氏治(おだ うじはる)の要請(ようせい=要求)をうけて越山(越後国から関東地方へ出陣)しました。

1572年(元亀三年)謙信、正月を上野(こうずけ=現在の群馬県)で迎(むか)えました。閏1月3日、武田方(たけだ かた)の上野石倉城(こうずけ いしくら じょう=現在の群馬県前橋市石倉町にあった城)を陥れた(おとしいれた)あと、信玄(けんしん)が西上野(にしこうずけ)へ出陣してきたため、厩橋(うまやばし)付近の利根川で対陣して、のちに帰国しました。2月、北条軍が厩橋を攻めました。謙信、上田衆(うえだ しゅう)を派遣(はけん=任務をおわせて、他の場所に行かせること)し、板屋光胤(いたや みつたね)に、倉内(くらうち=現在の群馬県沼田市)への移動を命じました。5月19日魚津城(うおづじょう)主河田長親(かわだ ながちか)より派遣された吉江忠景、太田保本郷に陣を取りました。5月23日敵対する加賀の一向一揆勢(いっこういっき=浄土真宗本願寺派による暴動)が河上五位庄に陣取りました。日宮城(ひのみや じょう=現在の富山県射水市下条にあった城)在城の神保覚広(じんぼう ただひろ)と家中(かちゅう=屋敷の中)、新庄城(しんじょう じょう=山形県新庄市堀端町にあった城)の鯵坂長実(あじさか ながざね)らに後詰めを求めました。鰺坂長実(あじさか ながざね)・河田長親(かわだ ながちか)・山本寺定長(さんぽんじ さだなが)で談合して、五福山(=富山市)へ向かうと、一向一揆勢が援軍に河田長親(かわだ ながちか)が駆け付け、数十人を討ち捕らえました。謙信、8月6日、越中(えっちゅう=現在の富山県)に出陣することを決め、同月18日に新庄(しんじょう)の山の根に着陣し、富山に着陣した一向一揆勢と対峙(対立する者どうしが、にらみ合ったままじっと動かずにいること)しました。9月、武田信玄の攻撃に備え、禰知城(ねち じょう=現在の新潟県糸魚川市根知谷区にある城)に黒滝衆(くろたきしゅう)、不動山城(ふどうさん じょう=新潟県糸魚川市大字越にあった城)には庄田越中守(しょうだ えちゅう のかみ)を置きました。9月17日、信玄の要請を受けた飛騨(ひだ=岐阜県北東部)の江馬輝盛(えま てるもり)が出陣しました。同月18日、謙信、滝山城(たきやま じょう=現在の東京都八王子市丹木町にあった城)の攻撃を始め、城内を焼き払い、同月23日破却(はきゃく=すっかりこわす)しました。9月、謙信、使者山崎秀仙(やまざき しゅうせん)を織田信長(おだ のぶなが)に派遣し、25日返事をたずさえた信長の使者と、将軍足利義昭(あしかが よしあき)の使者とともに越後(えちご=佐渡ヶ島を除く新潟県)に来訪してきました。その後、謙信、長景連(ちょう かげつら)を使者に起請文(きしょうもん=約束をかわした誓書)二通を持たせ信長へ派遣しました。11月20日、信長、起請文に血判(けっぱん=刃物で切った指で押印)を押す。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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