上杉謙信(7/11)(1569年~1570年)

ここでは、越相同盟成立が行われる年(1569年)から、越三同盟成立する年(1570年)まで勉強します。

1569年(永禄(えいろく)十二年)2月、北条氏(ほうじょう し)の和平提案(わへい ていあん)を受け入れました。同月、外廻輪が破却(はきゃく=こわすこと)され、本庄氏(ほんじょう し)は伊達氏(だて し)・葦名氏(あしな し)を通じて罪や過失(不注意・たいまんなどのためにおかした失敗)を許すよう願いました。和睦のためになされる協議を行い、輝虎、軍を引きつれて4月帰城しました。2~4月、和平の条件をめぐり折衝(せっしょう=外交的または政治的、駆け引き)が行なわれ、上杉・北条両氏間(うえすぎ・ほうじょう りょう うじ かん)で起請文(きしょうもん=神仏への誓いを記した文書)が交わされました(越相同盟(えつそうどうめい))。8月、輝虎、越中(えっちゅう=現在の富山県)に進軍しました。同月20日、境川(さかいがわ)を放火(ほうか)し、同月22日、椎名康胤(しいな やすたね)は、地形がけわしく守りに有利な場所に陣を張りました。同日の暁(あかつき=明け方)、新庄(しんじょう=現在の富山県富山市)を占領し、同月23日、金山城(現在の岐阜県可児市可兼山にあった城)の根小屋(ねごや=城のある山のふもとの集落)に火を放ちました。10月27日、春日山(かすがやま=現在の新潟県上越市)に帰城しました。11月、関東へ出陣しました。同月11日、倉内城(くらうち じょう=現在の群馬県沼田市にあった城)に着き、その地で年を越しました。

1570年(永禄十三年、元亀(げんき)元年)正月佐野氏が離反(りはん=従っていたものがそむきはなれること)したため、下野佐野(しもつけ さの)に出陣し攻略しました。この年、北条氏康(ほうじょう うじやす)の実子三郎(じっし さぶろう)が輝虎(てるとら)の養子(ようし)になることが決まりました。4月9日、厩橋(うやまばし=現在の群馬県前橋市)に到着、同月10日、倉内(くらうち=現在の群馬県沼田市)に到着し、同月11日、輝虎と対面しました。同月18日、三郎を越後府中(えちご ふちゅう=現在の新潟県上越市)へ連れ帰り、同月25日、祝儀(しゅうぎ=祝いの儀式)をあげました。8月、家康(いえやす)、同盟締結(どうめい ていけつ)のため使僧叶坊光播(しそう かのうぼう=使者として遣わす僧を輝虎に遣(つか)わし、輝虎、同盟承諾(どうめい しょうだく)の文書を8月22日に送りました。9月7日、武田勢(たけだ ぜい)、信濃岩村田(しなの いわむらた=現在の長野県佐久市)から碓氷峠(うすいとうげ=現在の長野県北佐久群軽井沢町、現在の群馬県安中市松井田町坂本)を越山し上野(こうずけ=現在の群馬県)に侵入し、厩橋(うやまばし=現在の群馬県前橋市)へ向け進軍しました。10月8日家康(いえやす)、輝虎に起請文(きしょうもん=神仏への誓いを記した文書)を送りました(越三同盟成立)。10月20日輝虎、上野(こうずけ=現在の群馬県)に出陣し、ただちに帰国しました。12月13日輝虎、来春2、3月越中(えっちゅう=現在の富山県)へ出馬し、留守中に越後(えちご=現在の佐渡ヶ島を除く新潟県)と関東が無事で、越中(えっちゅう=現在の富山県)を手に入れることができるならば、来年一年は毎日、看経(かんきん)することを誓う願文(がんもん=神仏に祈願の意を伝えるための文書)を認めました。この時の輝虎の署名は「謙信(しんげん)」でした。以降、輝虎は謙信と文書に署名するようになりました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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