ここでは、越中増山城(えっちゅう ますやま じょう)に立てこもる神保長職(じんぼう ながもと)を攻める年(1562年)から、春日山城に帰城する年(1564年)までを勉強します。
1562年(永禄(えいろく)五年)7月、越中(えっちゅう=現在の富山県)に出陣しました。9月、再び出馬し、増山城(ますやま じょう=現在の富山県砺波市)に立て籠(こ)もる神保長職(じんぼう ながもと)を攻めました。10月、輝虎、越後(えちご=現在の佐渡ヶ島を除く新潟県)に帰りました。
1563年(永禄六年)2月、箕輪(みのわ=現在の群馬県箕郷町)合戦が行われました。輝虎、北条氏康(ほうじょう うじやす)・武田信玄(たけだ しんげん)の攻撃により落城寸前の(おおた すけまさ)の武州松山城(ぶしゅう まつやま じょう=現在の埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山にあった城)に向いました。4月、騎西城(きさい じょう=現在の埼玉県加須市)を攻め、成田長康(なりた ながやす)を降伏させました。兵を下野(しもつけ=現在の栃木県)へ進め、祇園城(ぎおん じょう=現在の栃木県小山市城山町)を攻め、ついで佐野城(さの じょう=現在の栃木県佐野市若松町にある城)を攻めました。いったん越後(えちご=現在の佐渡ヶ島を除く新潟県)に帰るが、信玄(しんげん)が倉賀野城(くらがの じょう=現在の群馬県高崎市倉賀野町にあった城)を攻めると、閏12月19日越山(えつざん=輝虎による越後国から関東地方への出兵)し厩橋(うまわばし=現在の群馬県前橋市)に到着しました。
1564年(永禄七年)1月より常陸(ひたち=現在の茨城県)の小田氏治(おだ うじはる)を攻め、退散させました。2月、佐野城(さの じょう=現在の栃木県佐野市若松町にある城)を攻め破り、
倉賀野城(くらがの じょう=現在の群馬県高崎市倉賀野町にあった城)も落城(城を落とす)し、上杉方の箕輪城(みのわじょう=現在の群馬県高崎市箕郷町にあった城)が孤立しました。7月末、輝虎、信濃(しなの=現在の長野県)に向い、8月、川中島(かわなかじま=現在の長野県長野市の犀川と千曲川に囲まれた三角地帯の地名)に到着しましたが、合戦はなく、飯山城(いいやまじょう=現在の長野県飯山市飯山にあった城)の普請(ふしん=家を建築したり修理したりすること)を終え、10月、春日山(かすがやま=現在の新潟県上越市)に帰城(きじょう=城に帰る)しました。
以上諸説あり。