上杉謙信(3/11)(1559年~1561年)

ここでは、将軍より裏書御免(うらがきごめん=文書を包む封紙の裏に書くべき名字と官途名を省略して相手に書状を出す特権)、塗輿御免(ぬりこしごめん=漆色(うるしいろ)の輿(こし=みこし)に乗る権利)の御内書(将軍からの公的文書)を得た年(1559年)から、川中島(かわなかしま)で武田軍と激突した、第四回川中島合戦(1561年)までを勉強します。

1559年(永禄(えいろく)二年)景虎(かげとら)、二度目の上洛(京都へ行く)をしました。5月24日、将軍義輝(よしてる)にお目にかかりました。相伴衆(しょうばんしゅう=宴席などに将軍の相伴役(しょうばんやく=その連れの人)として仕える役職につきました。6月26日、将軍より裏書御免、塗輿御免の御内書を得ました。また、景虎に関東管轄(南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名)上杉憲政(うえすぎ のりまさ)の進退(自分の思い通りにすること)を任せ、信濃国(しなののくに=現在の長野県)の諸侍に意見を加えるようにとの御内書(将軍からの公的文書)を得ました。

1560年(永禄三年)3月、越中(えっちゅう=富山県)に出馬しました。5月府内(ふない=現在の新潟県三条市)掟(おきて)を出しました。8月末、景虎、上杉憲政(うえすぎ のりまさ)を奉じ(ほうじ=主人として)初めて関東(かんとう=現在の関東)へ出陣しました。
9月、那波・厩橋城(なわ・まやばし じょう=現在の群馬県前橋市にあった城)を攻め、厩橋城に入りました。この年、景虎、厩橋で年を越しました。

1561年(永禄四年)2月下旬、武蔵松山城(むさし まつやまじょう=現在の埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山にあった城)に着き、鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)の鶴岡八幡宮寺((つるがおかはちまんぐう=現在の神奈川県鎌倉市にある神社)に
願文(神仏に祈願の意を伝えるための文書)を捧げ(ささげ)、勝利を祈願しました。3月下旬、小田原(おだわら)へ迫り、酒匂川(現在の神奈川県に流れる川)に陣を張りました。閏3月、北条氏(ほうじょうじ)の本拠小田原城(おだわらじょう=)の包囲(ほうい)を
解き(とき)、鎌倉(かまくら)へ陣を引き(ひき)、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=現在の神奈川県鎌倉市にある神社)で上杉姓と関東管轄職(南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名)を継ぎ、
名を政虎(まさとら)に改めました。9月10日川中島で武田軍と激突しました(第四回川中島合戦)。12月に政虎は足利義輝(あしがが よしてる)から一字をもらい、名を輝虎(てるとら)と改めました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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