ここでは、法号(戒名)を宗心と与えられて(1553年)から、第三回川中島合戦(1557年)までを勉強します。
1553年(天文(てんぶん)二十二年)4月12日、治罰(じばつ=こらしめ正すこと)の綸旨(りんじ=天子(天皇)などの命令)を得ました。七月下旬、武田晴信(たけだ はるのぶ)に攻め入りました。
景虎、村上義清(むらかみ よしきよ)支援のため、信濃(しなの=現在の長野県)に出陣しました(第一回川中島合戦)。秋、景虎ははじめて上洛(じょうらく=京都に行く)しました。
12月、前徳大寺(ぜん とくだいじ=現在の東京都台東区上野にある寺院)住持(じゅうじ=住職)の徹岫宗九(てっしゅう そうきゅう)より宗心の法号(=戒名)を与えられました。
1555年(弘治(こうじ)元年)7月中旬、宗心、信濃(しなの=長野県)に出陣し(第二回川中島合戦)、信濃衆村上義清(むらかみ よしきよ)・高梨政頼(たかなし まさより)ら、宗心を頼り越後(現在の佐渡ヶ島を除く新潟県)に逃れました。
宗心、善光寺(ぜんこうじ=現在の長野県長野市元善町にある寺院)に陣を張りました。今川義元(いまがわ よしもと)の仲介で和議(争いをやめて仲直りするための協議)を結び、閏10月双方とも撤兵しました。
宗心、善光寺より仏具を越後に持ち帰り、直江津(なおえつ=現在の新潟県上越市)近くの浜(同市)に善光寺(ぜんこうじ)を建立し仏具を安置しました。
1556年(弘治二年)6月、隠居(いんきょ=官職から離れて、静かに暮らすこと)を決意するものの、8月取り止め、名を宗心から景虎(かげとら)に戻します。
守護(しゅご=役職の一。地方(ちがた)の下、守護代の上)上杉家(うえすぎ け)の公銭方(こうせんがた=役職の一)大熊朝秀(おおくま ともひで)が兵を起こし、駒帰(新潟県)で戦いました。
1557年(弘治三年)2月15日、水内郡葛山城(みのちぐん かつらやまじょう=現在の長野県長野市あった城)が攻め落とされ、景虎は信州口(しんしゅうぐち)に軍勢を動かし、武田軍に圧力をかけました。
3月28日、飯山城(いいやま じょう=長野県飯山市飯山にあった城)の高梨氏(たかしなし)の要請に応え、3月末、信濃(しなの=現在の長野県)に向けて軍を進め、4月、善光寺(ぜんこうじ=長野県長野市元善町にある寺院)に陣を構えました。
武田方の山田城(やまだ じょう=現在の長野県上高井郡高山村大字山田字馬場にあった城)・福島城(ふくしま じょう=現在の長野県須坂市福島にあった城)を奪回(だっかい=とりかえす)しました。
5月12日香坂(こうさか=現在の長野県佐久市香坂)を攻め、付近に火を放ち、5月13日坂木(さかき=長野県坂城町)・岩鼻(いわばな=同町)まで武田勢を追い散すことに成功しました。8月、上野原で合戦が行われました(第三回川中島合戦)。
以上諸説あり。